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--近藤 勇 関係図--
明治元年4月25日、板橋で刑死した近藤勇だが、その子孫はどうなったのだろうか?
近藤勇と正妻・ツネの間に生まれた一人娘・タマは、明治9年に勇の甥・宮川勇五郎(勇の実兄・音五郎の息子)と結婚して、一子・久太郎を産んだ。 しかし、病弱だったタマは25歳で病死。
一人息子の久太郎は、その後、日露戦争に出征し、戦死してしまった。
ここに近藤勇の血は絶えてしまったかに見える。

しかし、意外に?モテた勇は、京で多くの女性を囲っていた。
深雪太夫とその妹のお孝、駒野、金太夫、およし、植野・・・。
花街の女性を中心にわかっているだけでも6人もの愛人がいた。
その中で、幾松の妹分と言われる三本木の芸妓・駒野との間に男の子が産まれた。
この男児は出家して東福寺の僧になったそうだ。なかなかの知識人だったという勇の息子。
寺で密かに父の冥福を祈っていたかもしれない・・・。

深雪太夫の妹・お孝との間には女の子が産まれた。
父の名から一字取って「お勇」と名づけられたこの娘は、成長して祇園の舞妓となった。
その後、しばらく行方不明となっていたが、下関で売れっ子の芸者となっていたことが判明した。
皮肉なことに、幕末、新選組の敵であった長州の伊藤博文や井上馨の贔屓になっていた。
その後、お勇は朝鮮の貿易商と結婚し、子供を3人産んだという。
このお勇の3人の子供達がどうなったかは不明だが、近藤勇の血筋は今も絶えていないということになるだろう・・・。
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