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旧前川邸
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山南自刃部屋
■山南敬助自刃の間
隠し部屋
■物見の部屋
出窓のあった場所
■出窓があった場所
 
山南敬助自刃の間
新選組総長・山南敬助が切腹した部屋は、広い八畳間だ。
現在は照明の関係か意外と明るい。
山南敬助は仙台出身。北辰一刀流免許皆伝。
文武両道に優れた人物で、なおかつ親切者として壬生の住人からも人気があった。
その山南が慶応元年二月、書き置きを遺して脱走を図った。
原因は屯所の西本願寺への移転問題や副長土方との対立、健康上の問題など諸説があるが、真相は不明。
彼は大津宿にいた所を沖田総司に見つけられ、翌日屯所に連れ戻された。

「局ヲ脱スルヲ許サズ」

鉄の隊規にのっとり慶応元年2月23日、山南に切腹が申し付けられた。(山南は脱走はしていないとの説もある。)介錯は山南本人の希望で懇意にしていた沖田がつとめた。見事な切腹だったという。
注目したいのは坊城通への秘密の抜け道のある納戸が、この部屋の真裏にあるということだ。
現在は取り払われて杉戸張りの壁となっているが、かつては坊城通りに面した格子窓があり自刃前夜、この窓越しに山南と恋人の明里が別れを惜しんだと言われている。
この部屋に接する納戸からの抜け道を抜けると明里のいる坊城通りへ出られる。想像でしかないが、この部屋を切腹の間に設定した人物は、山南に再び逃げろと願っていたのではないだろうか?
山南の葬式には、隊士だけでなく壬生界隈の人々も大勢参列してその死を惜しんだ。その後、住職と親しくしていた光縁寺に葬られた。
享年33歳。山南自刃の間は、今は仏間として使われている。
 
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納戸下
■納戸下
抜け穴
■抜け穴
昔の様子
■昔の様子
 
三角
納戸の抜け穴
土間から上がった部屋の左手に納戸がある。
ここの納戸の床板が外れるようになっている。
現在はここが埋められているが、幕末は坊城通りへ通じる抜け道だった。前川邸を屯所として以来、新選組は邸内を徐々に要塞化し敵の襲撃から逃れられるように改装していった。
この抜け穴もそのひとつだろう。

抜け道イラスト
 
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