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■地下の隠し金庫 |
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■拷問のあった2階 |
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■窓から見える八木邸 |
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前川邸には二つの蔵がある。
天保8年創建の西の蔵と天保10年創建の東の蔵だ。
西の蔵の方は味噌蔵として、東の蔵の方は貴重品保管庫として使われていたという。どちらも同時期に作り始めたのに、東の蔵の完成が2年遅れたのはそれだけ厳重に作られたということだろう。
蔵の瓦や入り口には三重丸の紋が入っている。
これは前川家の家紋ではなく、掛屋をしていた前川家が御所への出入りを許可されたことを示すもの。
当時、前川家は御所や京都守護職など公的機関の出納も担当し、役人衆の信頼も絶大であった。
壬生が浪士隊の屯所に選ばれた一因は、前川家と守護職の信頼関係にもあったそうだ。
いよいよ、古高俊太郎の拷問が行われた東の蔵に足を踏み入れる。
入り口の扉は三重になっており、厳重である。中は驚くほどに広い。
床板の一部が外れるようになっており、ここが地下の隠し金庫として利用されていたそうだ。
意外と幅広で段差のある箱階段を登って、二階に上がる。
二階の床の一部も開けられるようになっており、梁からは、一階、そして地下の金庫まで通じる荷物昇降用の荒縄が吊るしてある。
ここに元治元年6月5日の朝、長州派の薪炭商・枡屋喜右衛門こと古高俊太郎が吊るされて土方歳三らから拷問を受けた。
しかし、逆さ吊りにされても古高は一向に口を割らない。
五寸釘が打ち込まれ、蝋燭が垂らされると、ついに、御所に火をつけるなど計画の一部が漏れた。
酷い拷問のようだが、当時としてはこれでも序の口だったらしい。
下の者にやらせてもいい仕事を副長自らがやる。
殺してもいいのにそこまではやらない。
古高にしても、どんなに拷問されても、仲間の浪士達集まる場所までは吐かなかった。
土方と新選組、古高と過激派浪士達、どちらが正しいということはない。ただ、自分達の信念を貫いた行動だった。
拷問の行われたのは旧暦の6月5日。
今で言う7月、暑い最中の出来事である。蔵の中での蝋燭責めといえば、古高も土方もさぞかし暑かっただろうなと
思いきや、蔵の中は意外にひんやりと涼しかったのが印象的だった。
蔵の窓を開けていただくと、網目越しに八木邸がよく見えた。
文久3年9月の芹沢鴨暗殺の日には、土方らはこの土蔵の2階から八木邸を見張っており、芹沢一派の島原からの帰還を見届けてから殺害に及んだという。
新選組史に残るドラマを生んだ蔵は、今なお、当時の姿を留め、大切に保存されている。
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